## カルテの保存期間 (3) ###  時効の起算点 ─ なぜ単純に計算できないのか [[カルテの保存期間 (2)|前回]]は、生命・身体侵害の損害賠償請求権の消滅時効についてお話ししました。現行民法では、主観的起算点から5年、客観的起算点から20年という期間が基本になります。ただし、改正前の事案では経過措置の確認も必要です。 今回は、時効の「起算点」、つまり、いつから期間を数えるのかを取り上げます。カルテを何年保管するかを考えるとき、この起算点を最終診療日と同じものと考えないことが大切です。 ###  「最後に診察した日から20年」ではない 客観的起算点は、不法行為の場合には「不法行為の時」です(民法724条2号)。債務不履行の場合には「権利を行使することができる時」とされています(民法166条1項2号)。生命・身体侵害の損害賠償請求権では、後者の期間も20年になります(民法167条)。 これらは、カルテの法定保存期間の起算点とも、院内で定める保管年限の起算点とも別の問題です。最後の診察から20年が経過したというだけで、すべての請求権が時効にかかったとは判断できません。 ###  遅れて発生する損害と、遅れて判明する損害 損害の性質上、加害行為から相当の期間を経て損害が発生する場合があります。 最高裁は、じん肺などの事案で、損害の全部又は一部が発生した時を起算点とする考え方を示しています。平成16年4月27日判決などに示されたこの考え方は、後述する令和3年4月26日判決でも確認されています。いずれも、改正前の民法724条後段の20年の期間についての判断です。[最高裁令和3年4月26日判決](https://www.courts.go.jp/assets/hanrei/hanrei-pdf-90269.pdf) ここで注意したいのは、損害が後から発生することと、すでに発生していた損害に後から気づくことは、同じではないという点です。 たとえば、手術後に症状が現れ、時間がたってから原因が判明した場面を考えてみます。これは説明のための架空の例です。原因が分かった日を、そのまま損害が発生した日として扱うことはできません。医療行為、損害の発生、患者さんの認識を、それぞれ分けて確認する必要があります。 医療上の問題が後から判明した場合に、常にその判明時から20年を数えるということではありません。損害の性質や経過、請求の法的根拠によって判断は異なります。 ###  「知った時」はいつか 主観的起算点にも別の難しさがあります。 不法行為の場合は、患者さん又は法定代理人が「損害及び加害者を知った時」が基準です(民法724条1号、724条の2)。債務不履行の場合は、「権利を行使することができることを知った時」が基準になります(民法166条1項1号)。 患者さんが治療結果に疑問を持った日と、賠償請求の前提となる事実を認識した日は、一致するとは限りません。診療時の説明、その後の検査、カルテの内容などを踏まえ、何をいつ認識したのかが問題になります。 一方で、専門家の意見が出た日や、弁護士に相談した日まで、必ず時効の開始が待たれるわけでもありません。カルテを入手した日を一律の起算点とすることもできません。紛争への対応では、診療経過だけでなく、説明や照会への回答の経過も記録しておくことが大切です。 ###  再発した場合に、すべて数え直すわけではない 後から別の損害が発生したといえるのかも、問題になります。 最高裁令和3年4月26日判決は、B型肝炎の特定の病態について判断したものです。HBe抗原陽性慢性肝炎が鎮静化して非活動性キャリアとなった後、HBe抗原陰性慢性肝炎を発症した事案でした。 最高裁は、後者による損害を先の損害と質的に異なるものと捉えました。そして、後者の損害については、HBe抗原陰性慢性肝炎の発症時を20年の期間の起算点としました。[判決全文](https://www.courts.go.jp/assets/hanrei/hanrei-pdf-90269.pdf) これは、再発や後遺症があれば、どのような病気でもすべての期間が初めから数え直しになるという判断ではありません。以前の損害との関係や疾病の特質を踏まえた判断です。医療過誤の事案に当てはめる際も、個別の事情を検討する必要があります。 ###  完成猶予・更新 ─ 期間の経過だけでは判断できない 現行民法には、時効の完成猶予と更新という仕組みもあります。 完成猶予とは、一定の事由がある場合に、時効の完成を一定の時点まで認めない制度です。期間のカウントが単純に一時停止する、と理解すると不正確になります。 たとえば、患者さんが訴訟を提起した場合、訴訟が続いている間は時効が完成しません。権利が確定せずに手続が終わった場合にも、終了から6か月が経過するまでは完成しません(民法147条1項)。 権利について協議を行う旨の合意を、書面又は電磁的記録で行った場合にも、完成猶予が認められます。ただし、猶予期間や再度の合意には法定の限度があります。話合いが続いているだけで、無期限に完成が猶予されるわけではありません(民法151条)。 更新は、時効が新たに進行を始める仕組みです。裁判上の請求について確定判決等で権利が確定した場合には、手続の終了時から新たに進行します(民法147条2項)。医療機関が患者さんの損害賠償請求権を承認した場合にも、更新が生じ得ます(民法152条)。 謝罪や説明があったというだけで、直ちに権利の承認になるとは限りません。発言や書面の内容、前後の経緯を確認する必要があります。 このように、20年という期間をあらゆる場合の絶対的な上限として扱うことはできません。なお、改正前の規定が適用される事案に、現行法の仕組みをそのまま当てはめないよう注意が必要です。 ###  結局、何年保存すればよいのか 診療録の法定保存期間と、紛争に備えて保管する期間は、分けて考える必要があります。法定期間を守っていても、廃棄後に診療経過の確認が必要になることはあり得ます。 私としては、診療録の保管方針を検討する際、少なくとも10年、できれば20年を一つの目安にしていただきたいと考えています。これは、すべての診療録に法律が一律に課している保存義務ではなく、紛争への備えを考えた実務上の提案です。 一般の債権の客観的な時効期間は10年、生命・身体侵害の損害賠償請求権では20年とされています。しかし、時効の起算点と院内の保管年限の起算点が一致するとは限りません。その数字だけで、廃棄しても支障がないと判断することはできません。 医療事故が疑われる記録や、照会・紛争への対応が続いている記録は、通常の廃棄対象から外す運用が必要でしょう。長期の診療経過が問題になり得る領域では、さらに長い保管も検討することになります。 ###  長期保管にあたっての留意点 長く保管する場合には、その期間にわたり個人情報を適切に管理する必要があります。保存の必要性と安全管理の両方を考え、不要となったデータの廃棄方法も決めておきます。 個人情報保護委員会と厚生労働省のガイダンスは、長期保存時の劣化防止や検索可能な状態での保存を求めています。不要となったデータを廃棄する際には、復元できない形にすることも示されています。[医療・介護関係事業者向けガイダンス(令和8年4月改正)](https://www.ppc.go.jp/personalinfo/legal/iryoukaigo_guidance/) 電子カルテは、データが残っているだけでは十分ではありません。システム更新後も、必要な記録を検索し、読める状態で取り出せるようにしておく必要があります。移行するデータの範囲や閲覧方法を、更新前に確認しておくことが大切です。 安全管理の検討では、厚生労働省の現行ガイドラインも参照します。公開時点では第7.0版(令和8年6月)が公表されています。[医療情報システムの安全管理に関するガイドライン](https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/0000516275_00006.html) ###  院内の記録管理ルールを整えるために 保管方針は、記録の種類ごとに一覧化しておくと運用しやすくなります。法定期間とその起算点、院内で定める保管期間、廃棄を保留する条件を分けて整理します。 紙と電子という媒体の違いだけで、同じ診療記録の保管年限を変える必要があるかも検討します。電子カルテの更新時に、必要な紙資料や画像との対応関係が失われないようにすることも大切です。 院内で「最終来院日から○年」という基準を設ける場合も、各法令の保存義務を下回らないか確認します。この院内基準を、民事上の時効が完成する日の判定に使うことはできません。 医療事故、患者さんからの照会、紛争などを把握した場合には、廃棄を保留する担当者と手順を決めておきます。保留を解除するときも、対応状況と保存の必要性を確認する仕組みが必要でしょう。 ###  おわりに このシリーズでは、法定保存期間と民事上の時効を分けて考える必要があることをお話ししました。最終診療日から一定の年数がたてば、どの記録も廃棄できるというものではありません。 10年、20年という目安を検討しつつ、診療継続上の必要性、紛争の可能性、個人情報の安全管理を踏まえて保管方針を定めます。個別の事情によって判断が変わる記録については、一律の廃棄処理から外せる運用を整えておくことが大切です。 ####  カルテの保存期間 目次 - [[カルテの保存期間 はじめに|はじめに]] - [[カルテの保存期間 (1)|(1)法定保存期間]] - [[カルテの保存期間 (2)|(2)消滅時効]] (公開日:2026年11月5日 文責:弁護士鈴木沙良夢)